DF詩吟同好会
第1回開催(7月29日)

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7月29日(火)17:00 福井美行会員(1526)の自宅(吟亮会の教場)に参集し、福井さんから詩吟の歴史、時代背景による吟詠の変遷、吟詠の基礎の講義を受け、最後に皆で課題曲の練習をした。

詩吟という言葉が生まれたのは、江戸時代初期に徳川家康が儒学を奨励し、林道春が湯島に設立した昌平校で漢詩を講義した際に、自然発生的に朗誦の旋律が生まれたことに端を発します。これを「昌平流」と呼び、現代吟詠の祖とされていますが、平安時代の朗詠とは直接関係がなく、拍子をほとんど持たない朗詠とは異なる特徴を持ちます。昌平流は単調で、一句ごとに息を切る吟じ方が特徴でした。

江戸時代後期になると、老中松平定信の学問奨励により各藩に藩校が設立され、昌平校で学んだ俊才たちが帰藩して漢詩の講義を行う中で吟誦が広まりました。これにより、仙台(養賢堂)、米沢(興譲館)、会津若松(日新館)、水戸(弘道館)、熊本(時習館)など、各藩校の名を冠した流派が生まれました。これらの吟は、漢詩に多少の節や地方の訛りが加わった程度のものでした。 また、この時代には私塾が急増し、亀井南冥(亀井流)、広瀬淡窓(淡窓流)、頼山陽(山陽流)といった著名な学者が独自の吟法を展開しました。特に淡窓流は、今日の吟詠の主要な源流の一つとされており、起承転結の作詩法を重んじ、第一句の四字目、第二句の二字目で息を入れ、句末で切る(二句三息と言います)という特徴的な区切り方を用いました。 幕末になると、詩吟は校歌や寮歌の性質から、尊王攘夷の志士たちの間で「勤王節」と呼ばれる革命歌調へと変化しました。これには淡窓流や勇ましい山陽流、薩摩琵琶などが影響を与えました。久坂玄瑞のような志士も詩吟の名手とされていますが、その音楽的価値は当時の他の邦楽(浄瑠璃、三味線音楽など)に比べて優れていたとは考えられていません。また、福岡藩の国学者二川相近らが今様集を出し、勤王の志士たちも今様詩を作ったことから、今様も詩吟、特に和歌の朗吟に大きな影響を与えました。

明治維新後、幕府や大名に保護されていた一部の日本音楽界はスポンサーを失い、新政府の西洋音楽教育優先政策により衰退しましたが、詩吟は地方で細々と受け継がれました。特に熊本では藩校時習館を源流とする肥後流が、明治期には済々校節として学生の間で流行しました。この時期には薩摩琵琶の影響も受け、旋律が固定化されるようになりました。 明治27年には尾崎弥太郎によって、詩吟の旋律を五線譜で記した現存する最も古い楽譜集『日本詩吟集』が発行されました。この頃、詩吟は学生の逍遙歌としても盛んに行われ、「トッセン」(唐詩選の朗吟)と呼ばれていました。 また、元田永孚が明治天皇の御前で、杉浦重剛が皇太子(後の昭和天皇)の御前で詩吟を披露するなど、高官たちにも愛好されました。

明治末期から昭和初期にかけては、詩吟が剣舞の伴奏や無声映画の「吟士」として劇場に進出し、興行的な成功を収める例も見られました。

大正から昭和にかけて流行歌に押され低迷しましたが、ラジオやレコードの普及は詩吟の飛躍的な広がりを牽引し、満州事変や支那事変、太平洋戦争の進展に伴う国民精神高揚の奨励により、空前のブームを巻き起こしました。昭和9年には全国詩吟大会が初めて開催され、翌年には日本放送協会主催の第一回全国放送詩吟大会が行われました。この大会は大きな反響を呼びましたが、点数や声質のみで優劣を判断することへの疑問などからわずか2回で中止されました。昭和13年には大日本吟詠連盟が結成され、翌年には関西愛国詩吟連盟との提携が実現するなど、吟詠界の統一に向けた動きが見られました。当時の詩吟の吟調は、琵琶調の影響が強く、豪壮なものが好まれる傾向にありました。また、詩吟には拍子がはっきりしない、あるいは無いという独特の特性があり、これは声明を祖とする朗詠や追分などと同じ系統に属します。この拍子の制約のなさが、詩吟が広く普及した魅力の一つであると指摘されています。海外においては、雨宮国渢が昭和12年に米国やカナダで詩吟を普及させるなど、国際的な広がりも見せました。朝鮮においても昭和7年には京城詩吟朗詠会が発足し、詩吟の普及が進められました。戦前の詩吟は悲憤慷慨の情を表し、怒号する傾向があったとされますが、これは漢詩の詩情を声で表現する技術としての宿命であり、作詩者や吟者の多くが逆境にあった人々の間で発達した経緯によると考えられています。

戦後はしばらくGHQの方針により詩吟は禁止されていましたが、昭和26年ごろからの高度成長期には許されるようになり、大学の詩吟や、女性の社会進出に伴う女流吟詠家の人気が高まりました。

その後、日本吟剣詩舞振興会が発足し、全国統一の審査方法が適用され、全国各地で予選を行い、全国決勝大会、そして武道館における吟詠と剣詩舞の祭典も含めて大きなブームが再燃しました。現在は日本財団の支援の下、青少年育成の指針により運営されています。

詩吟で詠われる漢詩は多岐にわたりますが、その時代背景や目的によって選ばれる詩の種類や吟調に特徴が見られます。詩吟は主に漢詩を素材としています。

江戸時代には、単調で、一句ごとに息を切る朗誦に近いものでした。後期には、藩校での講義を通じて各地に広まり、中でも広瀬淡窓の「淡窓流」が今日の吟詠の主要な源流の一つとされ、起承転結の作詩法を重んじ、句の区切り方に特徴がありました。塾歌である『桂林荘雑詠(休道他郷苦辛多)』などに代表されるように、塾生の精神的な支えや学問奨励の役割も果たしました。

幕末には、吉田松陰の『吾今為国死』や真木和泉の詩吟は大きい声を張り上げて詩を読んだものと解釈され、時代の気運を高める役割を担いました。

明治・大正時代には、乃木希典の漢詩(例: 『金州城外作』、 『凱旋』など)は特に人気を博しました。また、元田永孚が明治天皇の御前で自作の『芳山帯刀歌』を、杉浦重剛が皇太子(後の昭和天皇)の御前で雲井竜雄作の詩を披露するなど、高官にも愛好されました。この時期、詩吟は剣舞の伴奏や無声映画の「吟士」として劇場にも進出し、字幕の詩を吟じることで物語を盛り上げる役割を果たしています。

昭和時代(戦前)には、琵琶調の影響が強く、豪壮な吟調が好まれ、乃木希典の詩が多く吟じられました。詩吟で詠われる漢詩は、その文学性、倫理性、歴史性さが重視され、道徳心を高め、国民精神を鼓舞する目的で選ばれることが多かったと言えます。また、の情景や感情を声で表現しました。拍子が明確でないという詩吟独特の特性が、自由な表現を可能にし、広く普及した魅力の一つとされています。

監督:渡辺邦男 主演」嵐寛寿郎 製作費:2億円 興行収入:8億円
挿入吟:鈴木吟亮(金州城下の作、爾霊山)

ロシアの南下政策に戦々恐々とする人々、武力侵攻を主張する七博士、御前会議、国交断絶……と、日露戦争開戦までの経緯が描かれ、仁川上陸、旅順港封鎖、黄海大海戦、203高地、奉天入城、日本海海戦、大勝利の提灯行列までを、明治天皇の御製を織り込みながらパノラミックに描いた歴史ドラマ。

それまでの日本映画では天皇の姿を出すこと自体がタブーだった中、不振続きの新東宝が「ここ一番の大勝負」と、天皇をネタにすることを思いついた。担当者は天皇役の主演の嵐寛寿郎に連絡し、「日露戦争の話です。詳細は社長と渡辺監督から申し上げます」と切り口上で返すだけ。嵐は「乃木将軍でも演れとゆうことかいな」と思ったらしい。

翌日、本社に出向いた嵐寛寿郎に、大蔵社長は「明治天皇を演ってほしい」と切り出した。嵐寛寿郎は吃驚仰天し断ったが、渡辺監督は「大丈夫や、ボクかて右翼やないか」と返し、大蔵は「この作品に社運をかける、製作費2億円!」と熱弁を振るい、「寛寿郎くん、大日本最初の天皇役者として歴史に残りたいと思わんか?」と説得にかかった。元活動弁士仕込みの説得力もあり、嵐寛寿郎は「考えさせてもらいます」と答えたが翌日の新聞には、でかでかと「『明治天皇と日露大戦争』と、宣伝部が発表してしまった。こうして嵐寛寿郎は、この大役を引き受けざるを得なくなった。

■日本初の「天皇役者」

嵐寛寿郎は、前代未聞の明治天皇役をどう演じるか悩んだ。その姿を見た大蔵は一計を案じ、嵐寛寿郎が撮影所に来る時にはハイヤーで送迎し、ハイヤーが新東宝撮影所に到着すると大蔵以下新東宝の重役、スタッフが勢揃いして出迎えし「陛下のおなり」と呼び合うことを日課とした。嵐寛寿郎は後年、この日課により「自分が本当に天皇陛下になった気分がした」と述懐している。

嵐寛寿郎は日本初のこの大役に、「雲の上のお方で人間臭い演技でけしません、ニッコリ笑うてもあかん、とゆうて能面のように無表情ではアホにしか見えん」と四苦八苦する。

「もし昭和天皇をそっくり真似したらそれこそ不敬罪、喜劇になってしまいよる、お手本おまへん」、「象徴的にイメエジつくらんならん、これが天皇陛下やと見る人に納得させな主役として落第や、ほんまに苦労しました、この役づくりは」と振り返っている。

撮影に入ると、宮家の人間や元・海軍中将といった人たちが大勢来て、顧問料をもらっていろいろと指導してくれた。が、実際は誰も明治天皇をそばで見た者などおらず、その通りにやっても芝居にならないため、嵐寛寿郎は聞き流したという。結局、「おのれの心にあるイメエジで、恐れ多いお方や、大偉人やと思うままに演じればよい」と思った。宮内庁からは「皇室関係を描くときには宮内庁の許可を得よ」とクレームが来たが、このときも天皇になったつもりで「さようか、よきにはからえ、まことに気分がよろしい」という調子だった。

■空前絶後の大ヒット

こうして昭和31年12月、「日本初のシネマスコープ大型映画」として製作を開始した本作は、翌年、4月29日に、「総天然色・シネパノラミック方式“大シネスコ”」、「全国民が一人残らず見る映画!」と銘打って公開された。

試写会は、皇太子(明仁上皇)も鑑賞した。近代の天皇を俳優(嵐寛寿郎)が演じることに対し「不謹慎ではないか」という批判や、試写会後にも「敗戦後10年少々しか経っていない今、50年も前の勝ち戦を描く企画に無理がある」という評もあったが、公開されるや空前絶後の記録的な大ヒット映画となった。

上映した全ての映画館はすし詰めの超満員となった。戦前の日本と日本人の姿がそのまま再現された映画であり、進駐軍の占領を経て戦前の日本と手を切ったはずの民衆に衝撃を与えた。観客動員数は2000万人、「日本人の5人に1人が観た」と言われ、日本の映画興行史上の大記録を打ち立てた。

詩吟は基本的にミファラシドの5つの音しか使いません。
ミを「基音」として、上下に9つの音をいったりきたりします。
これだけの限定的な音であるので普及しやすかったのと、逆に詩心表現の難しさ、奥深さがあると考えられます。

3つのアクセント(日本語はすべて以下の3つのうちのどれか、です)
あたまだか   さいたま
へいばん    とうきょう
なかだか(なか2だか、なか3だか、) なまぐさい→なか3だか、“まぐさ”が高い)

11月11日に武道館大会にて約40人で以下の「金州城下の作」「爾霊山」を詠います。

二〇三高地はいかに険しくとも、どうして攀じ登れないことがあろうか。男子たるもの、功名を立てようとするならば、艱難辛苦に打ち克とうという覚悟が肝要である。
その決意のもとに激戦し、ついに砲弾の鉄片と将兵の尊い血が山を覆うて山の形さえ変わってしまった。誰しも皆この地を仰ぎ見るとき、嗚呼(ああ)爾(なんじ)の霊の山と、等しく仰ぎ慰めるであろう。

以 上(小林慎一郎)

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